旅のスパイス。街歩き研究家と編集者が聞き集めた、札幌のウワサ。
地元の人と話をしたり、街を徘徊していると耳にするウワサ話がある。街歩きの醍醐味の一つは、そんなエピソードを自分なりに追いかけてみることだったりする。約196万人もの市民が暮らす札幌で、ローカルの気質を一言で表現するのは難しいけれど、場所の記憶を辿れば、特徴が見えてくる。そして、ますますこの街が好きになるはず。
Text: Aiko Ichida
旅をしていると、不思議な風習や、ローカルの気質、土地の記憶に触れることがある。少しばかり想像も含みながら読み解く街のウワサ。それが街歩きのテーマとなり、地元の人との会話や、行動範囲を広げてくれる。今回、ウワサ探しをお手伝いしてくれたのは、地元タウン誌の編集者として働きながら古地図や写真など、さまざまな資料から札幌や北海道の歴史をひもとき発信してきた和田哲さん。2015年、『ブラタモリ』〜札幌編〜(NHK)に案内人の一人として出演。2022年に独立し、現在は札幌の地名や歴史の語り部として活動しています。そんな彼に、札幌の歩き方のヒントとして、4つのウワサを聞きました。
札幌のウワサ①
歪んだ「碁盤の目」から見える?開拓時代の人間臭さ
札幌といえば、「条・丁目」の座標軸を基本とした街づくりが基本。でも碁盤の目のはずの道路が、東本願寺前(中央区南7条西7丁目付近)で電車の線路とともにカーブしていることが、子供の頃から不思議でした。同じように地図を広げれば、他にも気づくことはあります。札幌中心部と(南側に隣接する)山鼻地区は碁盤の目の向きが微妙に違います。中心部の道は創成川が南北の基軸になっているため、碁盤の目が反時計回りに10.6度回転しています。一方の山鼻地区は、方位の南北に合わせてつくられたので時計回りに約5度戻って碁盤の目が形成されています。とはいえ、そもそも街の基盤をつくるタイミングはほぼ同時期です。しかも隣接しているエリアなのになぜ?いろんな書籍をあたってみたものの分からず。
明治時代初頭に始まる札幌の開拓使では、判官を務めた島義勇という名前が知られていますが、札幌中心部の街づくりを進めていたのは後任で土佐藩出身の判官・岩村通俊で、屯田兵制度を進めていたのが薩摩藩出身の開拓使次官・黒田清隆。この仲がとにかく悪かったという記録が残っている。ここからは僕の歴史ロマンの話ですが、この二人の歪んだ関係性こそが、碁盤の目をも歪ませたのではと想像するんです。遡っても札幌の街づくりの歴史はまだ浅く、当時の偉人たちの恥ずかしい話、くだらない見栄、失敗も隠しきれずに残っています。これは他府県で何百年もかけて行われてきたことを、わずか150年で一気に推し進めた札幌(北海道)ならではのこと。あとからもっともらしい物語をつくって美談にする余裕もないほど短期間で街が進化した証でもあります。札幌の風景、そしてそこで感じる“違和感”の中にまだまだ人間くさい話が誤魔化しきれずに残っているのも、この街の面白いところだなぁと感じています。
札幌のウワサ②
札幌市の番地、「条」と「丁目」の知られざる話
札幌の街は碁盤の目のように区切られていて、座標軸で居場所や目的地を把握できる。札幌駅の南側を東西に走る「大通り」を起点に南北を「条」で表している。また、東西の境界は「創成川通り」が起点。東西を「丁目」表している。住所になると○条△丁目の順番で呼ばれるので、札幌市役所なら「北1条西2丁目」となる。区画の数字が大きくなるほど、中心部から離れていくというわけ。この方法は札幌だけじゃなく、北海道全体に広がっている。
この住所システムが始まったのは、明治14年(1881年)のこと。それまでは北海道の地名を一本ずつの通りの名前にしていた。ところが覚えにくい上に、道路が増えるたびに名前をつけるのが大変だったため現在の方式に。開拓地、北海道にピッタリで、街が広がっても数字を増やしていくことで住所を区分けできる画期的な方法だったのだ。ちなみに札幌中心部の1丁は約130メートル。東西は30丁目まで、南は39条の創成川のあたりまで、北はJR札沼線の太平駅近くの51条まで存在する。
【最小区画】
住所が割り振られた区画で最も小さいのは南10条西2丁目。道路の分離帯で芝生に石碑が立っているだけ。
【最大区画】
逆に最も大きいのは、一周すると約2kmほどある、北16条西16丁目。札幌競馬場全体が1つの住所になっている。例えば北海道大学構内が細かく住所で分けられていることを考えると、不思議な話。
【架空の住所?】
南3〜13条では「西19丁目」が存在しない。同じように東区には北29条がない。区画整理の時間のずれや、地権者との交渉で、貫通させる道路の間に何本の道路を通せたかで、こういう空白の住所ができてしまうのです。
札幌のウワサ③
実は世界のお手本になるオリンピックレガシー「真駒内屋外競技場」
オリンピックや万博の後に問題となりがちな施設活用問題。1972年に開催された「札幌オリンピック」の開会式と、スピードスケートの競技会場となった南区にある真駒内屋外競技場(正式名称/北海道立真駒内公園屋外競技場、現在の真駒内セキスイハイムスタジアム)は、実はお手本のような建物だ。競技場がオリンピック会場として建設されたのは1970年。実は30年ぐらい時代を先取りした画期的な建築物だったことは意外に知られていない。高度成長期にあって、北海道は国に対して「公園の景観に溶け込むようなスタジアムにしてほしい」と要望したのです。
この課題を見事に解決したのが、設計者である前川國男。丘陵地を利用し、競技場全体を掘り下げて周りの立ち上がりを低くしたほか、聖火台を設置する高所部分は土地の傾斜を利用して配置するなど、地形の特徴を生かした設計を実現した。メインスタンド部分を除いて外側はほぼ土手ですから、外側から見ればただの芝生の丘。しかも建設費は新国立競技場のなんと39分の1(新国立競技場の建設費が1569億円に対し、真駒内屋外競技場は約13億円。今の金額に換算しても40億円台と言われています)。コストも抑え、景観に溶け込むように設計された競技場はまさに時代を先取りした、オリンピックレガシーなのです。
ぜひ見ていただきたい僕の推しスポットです。※イベント開催時以外、公園内の散策は入場無料
札幌のウワサ④
外国人が神様として祀られている神社?
南区の藻岩山にある「札幌もいわ山ロープウェイ」の中腹駅近くに、藻岩山神社がある。ここは近くにある札幌伏見稲荷神社の境内外末社になるのだが、祀られているのが外国人という、ちょっと他では見られない変わった場所なのだ。その顔ぶれに注目したい。
まず最初は「ウルの神」。北欧の神話に出てくるスキーの神様だそう。次に「レルヒの神」。札幌でスキーを指導したと言われる、オーストリアの軍人テオドル・エドラ・フォン・レルヒ中佐を指している。そして「ブランデージの神」。なんと、1972年に行われた札幌冬季オリンピック開催時のIOC会長アベリー・ブランデージ(アメリカ人)を祀っているというのだ。藻岩山が古くからスキーの聖地であることは間違いないが、なかなかのユニークさだ。ちなみに建立されたのは1987年。藻岩山を訪れるスキー客の無病息災、旅行・交通安全、病気平癒・健康などを祈願する場所となっている。
ちなみに藻岩山スキー場の麓には、地元のスキークラブによる私設の「札幌藻岩山スキー神社」なるスポットもあり、同じく「ウル神」「スカディ神」(ともに北欧神話のスキーの神で夫婦という言い伝え)、そして「ブランデージ神」が祀られている。こちらの方が1979年頃建立と、少し歴史が古いのも面白い。
※どちらも管理人がいるわけではないので、熊の出没時期などは十分に注意のうえ参拝を。
PROFILE
和田哲
わだ・さとる/編集者。
ブラサトルの愛称で街歩き研究家として、書物や古地図をあたりながら、札幌の街や歴史を紐解く。NHKの『ブラタモリ』札幌編でも、案内人の一人として登場。現在は著述やメディアのコメンテーターとして活躍する。